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2017年12月5日火曜日

【山形通信11】2017年12月更新

皆様、こんにちは。

blog管理人です。落合先生から山形通信が届きました!
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 師走のお忙しいところ、失礼します。今年当地は雪の降り始めが早く、大雪の予感です。
 そんな折、114日、東北中央自動車道、福島大笹生ICから米沢北ICまでが開通しました。東北道と東北中央自動車道が米沢経由で接続し、福島・山形間のアクセスが容易となりました。雪深い所で難所になっていたところ、この道路の開通は冬でも安心な高速道路の完成といったところでしょうか。宮城経由の山形道とは別に、複線道路の完成で、今後ますます山形と他県との交流・活性化が楽しみになってきたところです。
 さて、山形通信、ご無沙汰となりまして、どうもすいません。いいわけにもなりませんが、人生初、7月末に骨折、手術、入院を経験しました。退院しても自主的にリハビリを続けているせいか、元気になりました。その節はいろいろとご心配をおかけいたしました。
 50歳直前のアクシデントでしたので、入院中、ベットの上で50歳という年齢について考えを廻らす時間がありました。ということで、中世の偉人たちの50歳について、改めて調べてみましたのでご報告しましょう。以下満年齢です。

平清盛、49歳で太政大臣になりますが、翌年病に倒れ、出家しています。
源頼朝、51歳で落馬。翌年死去。
北条泰時、50歳で御成敗式目制定。
足利尊氏、53歳で死去。
後醍醐天皇、50歳で死去。
足利義満、50歳、病により死去。
足利義政、54歳、銀閣の完成を待たずして死去。
太田道灌、54歳の時、暗殺される。
武田信玄、53歳、病により死去。
上杉謙信、48歳、病により死去。
織田信長、ご存じ人生50(実際は48歳か)
豊臣秀吉、50歳の時、惣無事令やバテレン追放令を発布。

 と、まぁざっと有名人だけ挙げたみたところで、重病となり、それが基で亡くなったり、暗殺という不幸に見舞われたりしている人が多いのに気がつきます。中には志半ばで亡くなった人もいたでしょう。暗殺は除いて、当時の平均寿命の問題とも関わりますが、以前は簡単にできたことができなかったり、視力や体力が落ちたりと。昔も今も、ちょうど身体の変調を来す年齢なのは一緒なのかもしれませんね。
 その一方で、北条泰時は武士として初めて武家独自の法律を定めていますし、豊臣秀吉は自力救済の中世社会に終止符を打つように、豊臣平和令を発令しています。特に泰時は、「ものを知らない夷(えびす)がかき集めた」法律と笑われるかもしれませんが、「人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、庶民が安心して暮らせるように」、「当事者の身分に関わらず、偏頗なく裁定するための基準」として御成敗式目を作ったと述べています。『論語』「五十にして天命を知る」の境地に立った発言のような気がするのは私だけでしょうか。はたまた、人生の岐路に立つ年齢からの発言とも言えますでしょうか。
 偉人と比べるなんて恐れ多いのですが、以上、我が身体を振り返る中で、歴史における身体の重要性について改めて気づかされた、次第です。

 では今年最後のイベント、フィールドワーク、「常陸の中世史跡をめぐって」、どうかお楽しみに。
来年も宜しくお願いします!!

2016年11月23日水曜日

【山形通信9】2016年11月更新

皆様、こんにちは。
blog管理人です。落合先生から山形通信が届きました!
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 皆さん、こんにちは。こちらはラフランスやりんごがおいしい季節です。チラホラ雪の予報が出てきました。
 さて、先日の甲斐国フィールドワークはいかがだったでしょうか。私自身としては、12世紀初頭に甲斐国に来た源氏が、山麓の谷戸田の開発から始まり、国府周辺へと進出していく過程や、河川の氾濫に備えた領主主導による築堤の様相など、大変収穫の多い現地調査となりました。またご案内いただいた畑大介先生の大変わかりやすい解説と快適なバス移動のおかげで、有意義な二日間を過ごすことが出来ました。改めて畑先生、会員の皆様のご参加に感謝申し上げます。
 ところで、武田氏が甲斐国出身ではなく、常陸国出身ということで思い出したことがあります。大相撲九州場所を見ていて「正代」という四股名をもつ力士に目がとまりました。読みは「しょうだい」だそうですが、同じ読みの地名が埼玉県東松山市にありますね。力士の「しょうだい」さんと埼玉との関係は如何に。少し妄想を記しましょう。
 まずはウィキペディアで力士の「しょうだい」さんを調べてみました。彼は、熊本県宇土市出身で、なんと四股名が本名でした。
 次に、東松山市の「しょうだい」ですが、これはご存じ、鎌倉時代から本格的に活躍した小代氏の本貫地のことですね。『吾妻鏡』にもたびたび出てくる武士ですが、小代氏は、三浦氏を滅ぼした宝治合戦での活躍の恩賞として、宝治元年(1247)に肥後国野原荘(現在の熊本県荒尾市周辺)を与えられます。蒙古襲来に備えて、13世紀後半には肥後へと一族本体は下向(西遷)してしまいます。その後も活躍が認められ、現在に至るようです。つまり、力士の「しょうだい」さんのルーツは、もしかしたら東松山市にあるのかもしれませんね。それはともかく、鎌倉時代の武士には一つの所に命を懸ける(一所懸命)というイメージがありますが、その一方で、東遷・西遷する存在でもあったことも留意しておきたいところです。山形県にも、大江広元の子孫が鎌倉期に東遷してきたという伝承があり、彼らは伊達氏や最上氏が台頭してきた戦国期にも活躍しています。
 最後に、小代氏と河越氏について。鎌倉時代の終わり頃書かれた、小代行平・伊重置文には、「行平が生前源頼朝公からいただいた数通の御下文などすべて妻の河越尼御前に預けていたところ、尼御前は実家の河越一門を養うため、文書は養子に与えるので、行平死後、嫡子小代俊平には返却しない」という話が出てきます。中世の後家の力を知る貴重な史料ではありますが、小代氏にしてみれば、河越氏のおかげで東松山にはいられなくなっちゃった、なんとことにはならないでしょうね~。失礼しました。それでは来月の例会でお目にかかりましょう。
【写真1】浄業寺五輪塔(熊本県荒尾市)弘安四年(1281)9月の紀年銘ありhttp://blogs.yahoo.co.jp/stjtomo/12245067.htmlより

 【写真2】青蓮寺板碑(東松山市)弘安47月の紀年銘あり
http://www.geocities.jp/kawai24jp/saitama-higasimatuyama-syorenji.htmlより

2016年9月13日火曜日

【山形通信8】2016年9月更新

皆様、こんにちは。
blog管理人です。落合先生から山形通信が届きました!
9月6日に頂いておりましたが、更新が遅くなり申し訳ありません・・・
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 9月に入っても、台風など自然災害に悩まされる日々お過ごしのことと存じます。山形県は近県に比べますと、さほどの被害が少なかったようです。
 827日、あいにくの土砂降りのなか、館の会第6回講演会に60名以上の方にお集まりいただきました。改めまして感謝申し上げます。事前に20名ほどの問い合わせがあったようですので、天候さえよければもっとご参集いただけたのではないかと想像します。
 さて、今年の講演会は、近世の川越城の問題を通して、改めて中世の河越について考えてみた企画でした。特に川越城と山形城の関係を、成立期から近世にいたる城の変遷、および物流という視点から、川越市立博物館の平野寛之氏と山形市教育委員会の齋藤仁氏という2名の先生にご講演していただきました。両氏とも長年川越・山形両城の発掘調査にそれぞれ携わっており、最近の調査成果を拝聴することができました。
講演をする平野寛之氏

講演をする齋藤仁氏
ご存知の方も多いかと思いますが、18世紀後半の川越藩主は、秋元氏でした。しかし1767年、秋元凉朝の時、出羽国山形城への転封を命じられます。では転封とともに、職人や彼らの技術はどうなってしまったのでしょうか。近世の両地域における人・モノ・城の変遷について、さらに究明していけば、中世の流通問題を考えるヒントが得られるのではないかという趣旨の下、上記の先生方にご理解いただき開催の運びとなりました。

 山形城と川越城では、瓦の生産や技術、供給先の違いなど大変興味深いご指摘がありました。加えて、中世の河越館でも、14世紀頃の瓦が出土し、寺などで使用されていたのではないか、他の地域で出土する瓦とよく似た瓦が発見されていたことなども紹介されました。
権力者の歴史や政治史とは違い、技術やモノを通して、地域の歴史や周辺地域との繋がりなどがよく理解できた講演会になったのでは、と思います。
来年度も是非ご期待ください。最後になりますが、二人の先生におかれましては、この場を借りて御礼申し上げます。


 ところで、山形県ではそろそろ芋煮会の季節です。起源は諸説あるようで、近世だとか、近代に入ってからとか。毎週末、河原のあちらこちらで酒を片手に鍋をつつき合い、笑い声が絶えない風景が見られます。大学のゼミやサークル単位でも実施されていますが、なかには、県内各地で味付けや具材が違い、それをめぐり喧嘩をするグループもあるようですよ。川越でも是非始めてみてはいかがでしょう。
参考:芋煮フェスの「鍋太郎」新調で日本一奪還へ | 河北新報オンラインニュース
サツマイモ入りなんてのも、登場しそうですね~。それでは。 

2016年4月14日木曜日

【山形通信7】2016年4月更新

会員の皆様、こんにちは。

落合先生より山形通信が届きました!

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ご無沙汰しています。やっと当地は桜満開となりました。
山形大学キャンパスにて
 昨年は大学の仕事が多忙となり、なかなか「山形通信」をお送りすることができませんでした。

 さて、当地では、只今、最上義光ブームが到来中です。先月、2冊の本が刊行されました。1冊は、伊藤清郎氏の『人物叢書 最上義光』(吉川弘文館)、もう1冊は、松尾剛次氏の『家康に天下を獲らせた男 最上義光』(柏書房)です。それぞれ売れ行き好調のようです。実は、地元の郷土史家による書物や小説ではいくつか義光を扱ったものはありましたが、今まで実証的な歴史研究書が刊行されていなかったのが不思議なくらいです。3月21日には、研究者を中心としたシンポジウムを山形大学で開催したところ、遠くは熊本県の方までお見えになり、一般の聴講者を含めまして140名あまりの方にご参集いただきました。義光あるいは戦国史研究への関心の高さがわかりますね。
 ただ、人物から歴史を学ぼうとしている初学者にとっては、興味を持つ人物の動きを知り、その人物の考えに共鳴したり、思いを寄せたりすることで、ますます歴史が身近に感じられることでしょうが、歴史学者にとって、人物史は結構大変なものです。なぜなら対象とする人物の実像に迫るには、多くの伝承や後世の解釈・思い込みを排除して、古文書など一次史料の読解に基づいて叙述することを心がけ、あくまでも客観的に、様々な角度からアプローチしてゆかねばならないからです。その結果、ともすると、賛否分かれる評価を下すことになりかねません。まさに最上義光がそうで、こちらでは最上義光『公』と呼んで顕彰される方がおられるようですし、郷土の英雄として美化する風潮が見受けられます。
 それでは川越ではどうでしょうか。河越氏も重頼『公』、あるいは京姫伝説を信じて疑わない方がおられますよね。こうした伝説もなぜ、いつからそうした伝説が生まれたのか、そんな点を探るうえでは無視できないことかもしれません。歴史離れが言われる昨今、あくまでも史実を追究する学者と、伝説をそれはそれとして受け入れ、愛好される方々との格差を埋める、今後こうした作業がむしろ学者には必要なのかもしれません、と、ちょっと自戒しております。
 そうそう、肝心なことを忘れておりました。『現代語訳吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館)も刊行されました。私も駄文を書きましたので、お暇折りにでも書店や図書館で手に取ってくださいませ。
失礼しました。それではまた。

以下はblog管理人からの情報です。
本のHPはこちら⇒http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n546.html

2015年9月15日火曜日

【山形通信6】2015年9月更新

会員の皆様、こんにちは。
落合先生より山形通信が届きました!
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こんにちは。当地はめっきり涼しくなってきました。

 95日の大澤伸啓先生のご講演如何だったでしょうか(写真1)
写真1)大澤先生講演会の様子
 大変興味深いお話でした。中世の武士も館での日常生活とともに、常にあの世のことまで考え、お寺や浄土庭園を築いていたこと、河越館を考えていくうえでもいろいろと考えさせられるお話だったと思います。
 他地域の様相を知ることで、改めて中世の河越について気づかされることがあると思いますので、今後もこうした講演会を開くことで、見聞を深めていただければと思います。改めまして、大澤先生はじめ、ご来場の方々に御礼申し上げます。
 
 さて、最近、山形の南陽市あたりを廻っていたところ、面白い神社を見つけましたので紹介しましょう。1つめが、南陽市にある熊野大社です(写真2)
写真2)南陽市にある熊野大社
 中世以来多くの武将の信仰を集めたようですが、何と言ってもここの神社で有名なのは、本殿裏にある、三羽の隠し彫りされたウサギのことです。
 三羽見つけた人が次々と大成功を収めたことや、恋や願い事が成就したことから、「願いが叶う」「しあわせになれる」と言い伝えられているそうです。残念ながら私は1羽見つけるのがやっとでした。
 なかなか難しいですよ。是非皆さんも見つけてみてください。


 2つめの神社が、高畠町の「犬の宮」と「猫の宮」です。両社は100mほど離れていますが、まさしく犬と猫を祀る珍しい神社なのです(写真3)
写真3)猫の宮近くの板碑
 特に「猫の宮」についての伝承は、延暦年間(782806)まで遡るとのこと。信心深い夫婦には子どもがいなかったため、猫を可愛がっていたのに病死してしまいました。そこで今度こそ丈夫な猫が授かるようにと祈願したところ、夢に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てなさい」というお告げがあり、翌朝、本当に猫が現れたので、大事に猫を育てていたところ、誤って殺してしまいました。
 実は、その猫は、屋根裏に潜んでいた大蛇から夫婦の家を守っていた、ということを後で知り、夫婦は猫の遺骸を手厚く葬り、お堂を建て供養をしたそうです。後にはネズミを退治する養蚕の神として知られるようになったとか。この話が史実かどうかは確かめる術はありませんが、古くから猫は、経典を食うネズミを退治するため中国大陸からもたらされたという説があり、寺社との縁が深かったことは事実のようです。しかし鎌倉時代の猫は、いたずらものとか、殺生を好むものとして、寺院内で飼ってはならないという史料まで残っています。それが江戸時代後期になりますと、養蚕にネズミは大敵とされ、農民の間で、猫を蚕の神様と崇める信仰が生まれました。
 太田南畝の『一話一言』には、天明・寛政年間(17811801)頃、「出羽秋田に猫の宮」があって、そこには猫の絵を描く坊主がいたという話があります。
 秋田には、該当する「猫の宮」がありませんので、この話の「猫の宮」は高畠の「猫の宮」の可能性が高いのです。ここから恐らく、「猫の宮」は遅くとも18世紀後半に、地域の人たちによる猫への厚い信仰の中から創建されたのかもしれません。

 動物愛護週間(920日~26)が近い、というわけではないですが、今回は動物ネタになってしまいました。それでは、10月のFW、会員の皆様のおいでをお待ちしています。

2015年5月24日日曜日

【山形通信】第五弾!

落合先生より【山形通信】が届きました!
毎年8月に行われる花笠祭は有名ですね。ここでの歌詞「めでためでたの 若松様よ 枝も栄えて葉も茂る」は口ずさめる人も多いでしょう。さて、この「若松様」ですが、山形では、若松寺のことをさすようです(諸説あるようですが…)。今回、新緑の若松寺を訪れましたので、このお寺の話をしましょう。
国指定重要文化財の観音堂

 通称若松観音は、室町時代以降、出羽の三十三観音霊場一番札所として著名となりました。寺の伝えによれば、8世紀、行基によって開かれたといい、860年、円仁が堂塔を整備したといいますから、古代以来の天台宗寺院であることがわかります。現在、同寺は天童市大字山元に所在しますが、中世においては成生(なりゅう)荘といわれていたところにあったようです。現在、観音堂内には以下の銘文が記された金銅製聖観音懸仏が奉納されています。

当庄(成生庄)御政所芳ノ比丘尼高木比丘尼
敬白 若松寺御宝前
奉 懸聖観音御正体
右志趣者為一紙半銭結縁
助成之人々現世者至于七代
令守護給、後生者同成蓮花実矣
弘長三季癸亥五月八日 
大檀那藤原真綱敬白
 縁友藤原氏女 
   三位氏女 紀葉光

 この懸仏は、径が75.7センチという大型のもので、鏡板の中央に聖観音坐像が取り付けられています。技巧も優れていることから、鎌倉あるいは京都など中央で製作されたものと思われます。鏡板の裏面にある銘文には、成生庄の政所「芳ノ比丘尼・高木比丘尼」という2名の女性と、地頭と思われる大檀那藤原氏とその縁友たち、さらには「三位氏女」という女性も懸仏奉納に関わったことがわかります。少なくとも4人の女性の名前が見え、女性たちによる作善であることは興味深いものといえます。恐らく彼女らは、日頃観音菩薩を熱心に信仰していたのでしょう。政所や檀那の呼びかけに応じた「一紙半銭」の結縁助成した人々が、現世では七代に至るまで守護され、来世では「蓮花実」を成すため(死後、極楽浄土に往生し生まれ変われる、というような意味合いだろう)に懸仏を奉納した、という趣旨が刻まれています。
 最近では、このお寺のご住職のご利益が注目を浴びているようです。山形新聞によると、5年ほど前から、ご住職と握手すると、良縁に恵まれるという儀式が行われているようで、これまで約2千人が体験し、良縁を引くパワーを得たのだそうです(2013年5月10日掲載)。
 今も昔も、女性の信心の深さやパワースポット巡りにうかがえるように、神仏のご加護にあやかりたい気持ちは変わらないようですね。一度いらしてみてください。それでは

2014年12月23日火曜日

【山形通信】第四弾!

皆様、こんにちは。
blog管理人です。

落合先生から【山形通信】が届きました!!

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師走のお忙しいところ、失礼します。

11月のフィールドワークはいかがだったでしょうか。特に圧巻だったのは、樺崎寺の浄土庭園だったのではないでしょうか。足利義兼入定の場所まで拝観できたのは収穫でした。
(写真1)
さて、当地山形は本格的に雪となりました。写真は大学のキャンパスです(写真1)。いまだに自転車で通学している学生をときたま見ることがありますが、私は長靴で通勤しています。ただし、こちらの長靴は写真のように靴底がおもしろい。ピンがついていて、滑り止めの効果があります(写真2)。
(写真2)
雪道はまだよいのですが、単なるゴム製のものだと、凍った道は上手に歩かないと滑って転んでしまいます。関東では、たかが長靴とお思いでしょうが、この季節、靴屋さんの店頭は、おしゃれな長靴・ブーツをはじめ様々な種類の靴が売られています。周辺のかたがたにいわせると、まだまだ雪や寒さは序の口らしいです。私は寒さにまだ慣れませんし、雪道の自動車の運転もおっかなくてまだできません。
(写真3:山形市教育委員会提供)
話かわって。授業もかねて、先日学生とともに、またまた山形城の発掘現場を訪れました。初めて知りましたが、城内からは16世紀末以降の金箔瓦が発見されています。「山」と読めるのがわかるでしょうか(写真3)。
ご存じの通り、戦国期の城主は最上氏ですが、彼のご先祖は斯波氏、つまり足利氏の親戚です。ですから瓦のマークには、二引両が連想されますが、そうではないのです。最上義光はしばしば「山形殿」と呼ばれているので、瓦の「山」の字は、「山形」の「山」を意味しているのでしょう。つまり、斯波氏の時代から次第に山形城の主として、自身のことを「山形」氏と自覚するようになった、その反映ではないかと思います。義光にとって、「よそ者」の名字ではない、地元「山形」という名字でなければ、人心をうまくまとめられない、と思ったのかもしれませんね。

それから、過日山形新聞に私のコラムが載りましたので、ご興味がありましたら下記にアクセスしてみてください。
http://www.e.yamagata­u.ac.jp/docs/yamashin/102.pdf
http://www.e.yamagata­u.ac.jp/topics/141203.html

最後に。皆様今年もお世話になりました。来年もどうか宜しくお願いします。良いお年をお迎えください。

おちあい

2014年8月22日金曜日

【山形通信】第三弾!

皆様、こんにちは。
blog管理人です。

落合先生から【山形通信】が届きました!!

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残暑お見舞い申し上げます。当地では花笠祭りが終わり、朝晩は秋の気配が感じられる季節となりました。

 さて、先日、自宅近くの山形城の発掘現場などを見学してきました。お城を最初に築いたのが14世紀中頃の斯波兼頼といわれており、彼の家は土着し、後に最上を名乗ります。
お城が現在のような、本丸・二の丸・三の丸の規模になったのは、17世紀初頭以前、最上義光の時代頃といわれています。広さからいうと、東北地方では最大の大きさとか。
 現在では二の丸の周囲に石垣・水堀が残り、三の丸の土塁が一部残っています(写真参照)。二の丸の中は、霞城公園として整備され、山形県立博物館、山形市郷土館(旧済生館病院本館)、県体育館、野球場などがあります。現在、お城の復元を目指して発掘調査が進められています。川越城同様、近世に相当な盛り土がされたり、お城が改変されているようです。最上時代(中世)の遺構がどのようなものか知りたいところです。
 ところで、BSで『独眼竜政宗』の再放送をやっていますね。伊達政宗のライバル、最上義光は故原田芳雄さんが演じられています。しかし悪賢い、ヒールのような描かれ方をされている、と感じるのは私だけでしょうか。
 ご承知のことでしょうが、政宗と義光は甥・伯父の関係で、時には同調しています。例えば、1600年、出羽国における上杉景勝(直江兼続)との戦いでは、両者とも徳川家康方に属し、政宗は義光に援軍を送っています。
 では義光とはどんな人だったのでしょうか。彼の人柄がしのばれる史料を2つ紹介しましょう。1つは、天正20年(1592)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣した際、出羽の家臣に対して「自分は朝鮮へ渡海しないですんだ。(中略)早く国元に帰って最上(山形)の土を踏みたい、水を一杯飲みたい、娘に逢ってみたい」という書状(現代語訳)を送っています。故郷を懐かしみ、家族を思う心情がうかがえます。
 2つめは和歌です。「冬来ぬと はや山里も 霜寒み くつに音ある 庭のかよい路」冬の訪れを、通い慣れた庭の道の霜柱を踏みしめる音で表現したのでしょう。義光の繊細さの一端が垣間見られる和歌といえましょう。
 ちなみに「義光」と書いて「よしあき」と読みます。あっ、どうかで聞いた名前…。
おちあい

2014年6月24日火曜日

【山形通信】第二弾!

明日(6/25)朝5時からサッカー日本代表を応援する予定のblog管理人です。
個人的なことはさておき・・・

落合先生から【山形通信】が届きました!!
※6月27日一部内容を差替えました。
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みなさん、こんにちは。
山形通信です。
6月に入り、こちらは雨という雨はあまり降りません。
ただし、さくらんぼには今年はちょうどよい天候だったようで、おいしいものができたようです。今週から本格的に出荷販売のようで、あちこちでさくらんぼののぼり旗が立ち始めました。
さて、先日、寒河江市にある慈恩寺(じおんじ)に行ってきました。8世紀頃開山といわれている由緒ある寺院です。かつては3ヵ院48坊からなる寺院だったようですが、今では3ヵ院17坊となり、一寺院に真言宗・天台宗という2つの宗派があるという珍しい寺院です(終戦後は宗教法人として独立、慈恩宗となっている)
ただいま、山形デスティネーションキャンペーンに合わせて、秘仏が公開されています。すべて平安から鎌倉時代のものばかりです。このような仏像が作られ、残されたのも、寺院の周辺が寒河江荘という摂関家領の荘園となり、12世紀の終わりにはその荘園に大江広元が地頭に任命されるからでしょうか?ともかく平泉の中尊寺と遜色ない寺院といえるでしょう。今年中には慈恩寺旧境内は国指定史跡になる見通しだそうです。
しかし残念なことに、文政13年(1830)に再建された三重の塔に、現代人の落書きを見つけてしまいました。心ない人がいるものです。
次回の例会担当史料、建久693日条には、源頼朝が平泉中尊寺の荒廃をなげき、堂舎を昔のように維持せよ、と命じています。
こうした偉人のなみなみならぬ努力もそうですが、我々一人一人も文化財を愛する心を養いたいものですね。
ちなみに、三重の塔内には、なぜか弘長3年(1263)、常陸の笠間時朝なる武士が、常陸国小山寺に納めたとされる木造大日如来坐像が現存します。
 次回は花笠音頭の季節に登場しようかな?それでは。
 おちあい

2014年5月1日木曜日

【山形通信】第一弾!

blog管理人です。
落合先生の【山形通信】が始まります!
皆様、お楽しみに!!

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みなさんこんにちは
山形市民になりました、落合です。
そちらはもう初夏の装いでしょうか?
こちらは41920と、やっと桜が満開となりました。
山形城(霞城)公園の桜は最高です。前回の例会終了の翌日夜、霞城を歩きました。多くの人出で賑わっていました。しかしまだまだ熱燗がほしい季節です。
機会がありましたら、来年は訪れてみてください。
写真は下記からのものです。
 さて、ただいま、お隣の米沢上杉博物館では特別展「上杉家伝来絵図」が開催中です。重要文化財「越後国頚城郡絵図」、「越後国瀬波郡絵図」の展示、それから426日(土)~56日(火・祝)まで国宝「上杉本洛中洛外図屏風」の原本の展示がみられます。この機会を逃すと、しばらく見られない一級品です。是非、GWに予定のない方、米沢に直行してください。

また、5/24、25には、被災地以外では初めて、山形市内で『東北六魂祭』が開かれます。東北のお祭りが一堂に会にします。こちらも相当の人出が予想されます。ご興味の方、是非お出かけください。
新幹線経由で、川越の実家からわずか3時間。遠いようで、近い山形。いままで通っていた東海大学(平塚市)よりも短時間で到着します()
たかだか1ヶ月しか住んでませんが、それでも歴史の町で、生活のすべてにいたるまで川越よりもはるかに歴史が生きている町です。
都会?の川越市民には信じられない伝統的な生活様式がいまだに生きていることを実感しています。
それはともかく、食べ物もおいしい(お酒もね)ですので、是非是非お出かけください。
それではまた。ときおりおじゃまします。
 おちあい