2016年11月23日水曜日

【山形通信9】2016年11月更新

皆様、こんにちは。
blog管理人です。落合先生から山形通信が届きました!
**************************************************************************************************************************
 皆さん、こんにちは。こちらはラフランスやりんごがおいしい季節です。チラホラ雪の予報が出てきました。
 さて、先日の甲斐国フィールドワークはいかがだったでしょうか。私自身としては、12世紀初頭に甲斐国に来た源氏が、山麓の谷戸田の開発から始まり、国府周辺へと進出していく過程や、河川の氾濫に備えた領主主導による築堤の様相など、大変収穫の多い現地調査となりました。またご案内いただいた畑大介先生の大変わかりやすい解説と快適なバス移動のおかげで、有意義な二日間を過ごすことが出来ました。改めて畑先生、会員の皆様のご参加に感謝申し上げます。
 ところで、武田氏が甲斐国出身ではなく、常陸国出身ということで思い出したことがあります。大相撲九州場所を見ていて「正代」という四股名をもつ力士に目がとまりました。読みは「しょうだい」だそうですが、同じ読みの地名が埼玉県東松山市にありますね。力士の「しょうだい」さんと埼玉との関係は如何に。少し妄想を記しましょう。
 まずはウィキペディアで力士の「しょうだい」さんを調べてみました。彼は、熊本県宇土市出身で、なんと四股名が本名でした。
 次に、東松山市の「しょうだい」ですが、これはご存じ、鎌倉時代から本格的に活躍した小代氏の本貫地のことですね。『吾妻鏡』にもたびたび出てくる武士ですが、小代氏は、三浦氏を滅ぼした宝治合戦での活躍の恩賞として、宝治元年(1247)に肥後国野原荘(現在の熊本県荒尾市周辺)を与えられます。蒙古襲来に備えて、13世紀後半には肥後へと一族本体は下向(西遷)してしまいます。その後も活躍が認められ、現在に至るようです。つまり、力士の「しょうだい」さんのルーツは、もしかしたら東松山市にあるのかもしれませんね。それはともかく、鎌倉時代の武士には一つの所に命を懸ける(一所懸命)というイメージがありますが、その一方で、東遷・西遷する存在でもあったことも留意しておきたいところです。山形県にも、大江広元の子孫が鎌倉期に東遷してきたという伝承があり、彼らは伊達氏や最上氏が台頭してきた戦国期にも活躍しています。
 最後に、小代氏と河越氏について。鎌倉時代の終わり頃書かれた、小代行平・伊重置文には、「行平が生前源頼朝公からいただいた数通の御下文などすべて妻の河越尼御前に預けていたところ、尼御前は実家の河越一門を養うため、文書は養子に与えるので、行平死後、嫡子小代俊平には返却しない」という話が出てきます。中世の後家の力を知る貴重な史料ではありますが、小代氏にしてみれば、河越氏のおかげで東松山にはいられなくなっちゃった、なんとことにはならないでしょうね~。失礼しました。それでは来月の例会でお目にかかりましょう。
【写真1】浄業寺五輪塔(熊本県荒尾市)弘安四年(1281)9月の紀年銘ありhttp://blogs.yahoo.co.jp/stjtomo/12245067.htmlより

 【写真2】青蓮寺板碑(東松山市)弘安47月の紀年銘あり
http://www.geocities.jp/kawai24jp/saitama-higasimatuyama-syorenji.htmlより