皆様、こんにちは。
blog管理人です。落合先生から山形通信が届きました!
9月6日に頂いておりましたが、更新が遅くなり申し訳ありません・・・
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9月に入っても、台風など自然災害に悩まされる日々お過ごしのことと存じます。山形県は近県に比べますと、さほどの被害が少なかったようです。
8月27日、あいにくの土砂降りのなか、館の会第6回講演会に60名以上の方にお集まりいただきました。改めまして感謝申し上げます。事前に20名ほどの問い合わせがあったようですので、天候さえよければもっとご参集いただけたのではないかと想像します。
さて、今年の講演会は、近世の川越城の問題を通して、改めて中世の河越について考えてみた企画でした。特に川越城と山形城の関係を、成立期から近世にいたる城の変遷、および物流という視点から、川越市立博物館の平野寛之氏と山形市教育委員会の齋藤仁氏という2名の先生にご講演していただきました。両氏とも長年川越・山形両城の発掘調査にそれぞれ携わっており、最近の調査成果を拝聴することができました。
さて、今年の講演会は、近世の川越城の問題を通して、改めて中世の河越について考えてみた企画でした。特に川越城と山形城の関係を、成立期から近世にいたる城の変遷、および物流という視点から、川越市立博物館の平野寛之氏と山形市教育委員会の齋藤仁氏という2名の先生にご講演していただきました。両氏とも長年川越・山形両城の発掘調査にそれぞれ携わっており、最近の調査成果を拝聴することができました。
講演をする平野寛之氏 |
講演をする齋藤仁氏 |
ご存知の方も多いかと思いますが、18世紀後半の川越藩主は、秋元氏でした。しかし1767年、秋元凉朝の時、出羽国山形城への転封を命じられます。では転封とともに、職人や彼らの技術はどうなってしまったのでしょうか。近世の両地域における人・モノ・城の変遷について、さらに究明していけば、中世の流通問題を考えるヒントが得られるのではないかという趣旨の下、上記の先生方にご理解いただき開催の運びとなりました。
山形城と川越城では、瓦の生産や技術、供給先の違いなど大変興味深いご指摘がありました。加えて、中世の河越館でも、14世紀頃の瓦が出土し、寺などで使用されていたのではないか、他の地域で出土する瓦とよく似た瓦が発見されていたことなども紹介されました。
権力者の歴史や政治史とは違い、技術やモノを通して、地域の歴史や周辺地域との繋がりなどがよく理解できた講演会になったのでは、と思います。
来年度も是非ご期待ください。最後になりますが、二人の先生におかれましては、この場を借りて御礼申し上げます。
ところで、山形県ではそろそろ芋煮会の季節です。起源は諸説あるようで、近世だとか、近代に入ってからとか…。毎週末、河原のあちらこちらで酒を片手に鍋をつつき合い、笑い声が絶えない風景が見られます。大学のゼミやサークル単位でも実施されていますが、なかには、県内各地で味付けや具材が違い、それをめぐり喧嘩をするグループもあるようですよ。川越でも是非始めてみてはいかがでしょう。
参考:芋煮フェスの「鍋太郎」新調で日本一奪還へ | 河北新報オンラインニュース |
サツマイモ入りなんてのも、登場しそうですね~。それでは。