皆様、こんにちは。
blog管理人です。
落合先生から【山形通信】が届きました!!
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残暑お見舞い申し上げます。当地では花笠祭りが終わり、朝晩は秋の気配が感じられる季節となりました。
お城が現在のような、本丸・二の丸・三の丸の規模になったのは、17世紀初頭以前、最上義光の時代頃といわれています。広さからいうと、東北地方では最大の大きさとか。
現在では二の丸の周囲に石垣・水堀が残り、三の丸の土塁が一部残っています(写真参照)。二の丸の中は、霞城公園として整備され、山形県立博物館、山形市郷土館(旧済生館病院本館)、県体育館、野球場などがあります。現在、お城の復元を目指して発掘調査が進められています。川越城同様、近世に相当な盛り土がされたり、お城が改変されているようです。最上時代(中世)の遺構がどのようなものか知りたいところです。
ところで、BSで『独眼竜政宗』の再放送をやっていますね。伊達政宗のライバル、最上義光は故原田芳雄さんが演じられています。しかし悪賢い、ヒールのような描かれ方をされている、と感じるのは私だけでしょうか。
ご承知のことでしょうが、政宗と義光は甥・伯父の関係で、時には同調しています。例えば、1600年、出羽国における上杉景勝(直江兼続)との戦いでは、両者とも徳川家康方に属し、政宗は義光に援軍を送っています。
では義光とはどんな人だったのでしょうか。彼の人柄がしのばれる史料を2つ紹介しましょう。1つは、天正20年(1592)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣した際、出羽の家臣に対して「自分は朝鮮へ渡海しないですんだ。(中略)早く国元に帰って最上(山形)の土を踏みたい、水を一杯飲みたい、娘に逢ってみたい」という書状(現代語訳)を送っています。故郷を懐かしみ、家族を思う心情がうかがえます。
2つめは和歌です。「冬来ぬと はや山里も 霜寒み くつに音ある 庭のかよい路」冬の訪れを、通い慣れた庭の道の霜柱を踏みしめる音で表現したのでしょう。義光の繊細さの一端が垣間見られる和歌といえましょう。
ちなみに「義光」と書いて「よしあき」と読みます。あっ、どうかで聞いた名前…。
おちあい